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メッセージ

必修,量子コンピューター

山内 薫

現代社会はコンピューターという信頼のおける装置によって成り立っている。コンピューターはプログラム通りに計算を行うので,正しくプログラムを書くことができれば,コンピューターを用いて多種多様で複雑な問題を解くことができる。予測モデルを正しく構築すれば,気象現象を高い精度で予測することもできる。人工知能も,ウェブシステムも,クラウドサービスも,何もかもコンピューターのおかげで実現されている。

一方で,近年の技術革新のおかげで,量子コンピューターが現実のものとなり,それに伴い,我々が頼りにしてきたコンピューターを古典コンピューターと呼ぶ機会も増えてきた。量子コンピューターとは,簡単に言えば,「量子力学の法則に従うシステム(これを量子系と呼ぶ)の量子状態を,プログラム制御された外部からの刺激によって変化させ,その結果として得られた量子状態を読み出して答えを得る装置」である。果たして,この装置は,古典コンピューターに比べて優れているのだろうか。

通常,量子コンピューターでは,その量子系を,qubit (キュービット)と呼ばれる2準位系を用いて記述する。1つのqubit の2準位の内,エネルギーの低い方を0,高い方を1と呼ぶ。一般的には,このqubitの状態は,0の状態と1の状態の重ね合わせ(線形結合)で記述される。もし,2つのqubit から量子系を構成すれば,それは,00,01,10,11と指定される量子状態の重ね合わせとして記述される。つまり,22 = 4の状態の重ね合わせとなる。10個のqubitからなる量子系を作れば,210 ~ 103の状態の重ね合わせを作ることができる。

今,最小基底関数系を用いた場合,ベンゼン分子の電子状態を完全CI(configuration interaction)で記述しようとすると,容易に1 ゼタバイト(1 ゼタバイトは1021バイト)を超えるメモリーが必要となる。富岳クラスの大規模スーパーコンピューターにおいても,そのメモリーサイズは10ペタバイト(1ペタバイトは1015バイト)程度にとどまるため,古典コンピューターを用いた精度の高い電子状態計算には事実上の限界がある。一方,量子コンピューターの場合は,qubit を70個ほど使えば,ゼタバイトクラスの量子状態を記述することができる。実際,超伝導型qubit を実装した量子コンピューターでは,156 qubit から構成されているものがクラウド上で利用できるようになっている。

この数年,量子コンピューターの qubitの数は年々増加しており,古典コンピューターでは不可能な程大規模な計算が量子コンピューターによって可能となると期待されている。そのため,量子コンピューターの研究開発のための国家規模のプログラムが米国,欧州,中国をはじめ世界中で進行中であり,それぞれに大規模な予算が投入されている。我が国においても,量子技術イノベーション戦略に基づき,2021年2月に量子技術イノベーション拠点(11拠点)が発足し,2024年4月には,内閣府量子技術イノベーション会議の報告「量子産業の創出・発展に向けた推進方策」において,量子コンピューターをはじめとする先駆的かつ先端的な量子技術開発と産業応用への取り組みの重要性が指摘されている。

これまで,量子化学計算は,量子コンピューターのキラーユースケース(killer use case:最も魅力的な使用事例)となると期待されてきた。しかし,現実問題として,「量子コンピューターを使った量子化学計算によって,古典コンピューターでは実現し得ない成果が得られているのか」と言うと,そのような例は知られていない。それは,現在利用可能な量子コンピューターにおいては,ノイズが存在するために量子演算(qubit に対して行う量子力学的演算)において,ある確率で誤りが生じるためである。したがって,量子回路(いくつもの量子演算から構成されるプログラム)の実行過程で,量子演算を行う度に,誤りが積み重なって行くことになる。特に,2つの qubit をエンタングルさせる操作,つまり,2つのqubit に相関を持たせる量子演算においては,その誤りの確率は,現在クラウド上で利用可能なイオントラップ型の量子コンピューターの中で最も性能の高いものにおいても,0.1%程度までしか下げることができていない。

実のところ,現在利用可能な量子コンピューターは,いずれもノイズの影響を受けるものであり,NISQ(noisy intermediate-scale quantum;ニスク)コンピューター,あるいは,NISQデバイスと呼ばれている。量子コンピューターそのものが量子系であるため,その計測によって得られた結果には統計誤差が伴うことになる。したがって,計算結果として答えを得るには,量子回路を何回も実行する必要がある。また,NISQコンピューターを使って量子回路を実行する場合,量子演算の過程などで生じるノイズに起因する系統誤差が加わることになる。例えば,1000回量子回路を実行して得られた結果(量子準位のエネルギーの値など)をプロットすると,その分布は統計誤差を反映した幅を持つことになるのだが,分布の中心は系統的な誤差によって,正しい値からずれることになる。そのため,分布の中心となる値からのずれを何らかの方法で推定し,それを補正することが必要となる。この補正は誤り緩和(error mitigation)と呼ばれており,様々な誤り緩和の方法が開発されている。

この状況は,実験研究において,実験データを取得するとき,何回も計測を行って統計誤差を考慮して中心値を出すとともに,計測手法や実験装置そのものに由来する系統的な誤差を評価して中心値を補正するという過程とよく似ている。NISQコンピューターを用いた計算は,まさに,量子コンピューターという装置を用いた実験と見なすことができる。量子演算を行い,その過程でどのように誤りが起こるかを調べ,その誤りを如何に緩和できるかを調べることは,qubit から構成される量子系の特徴を調べることにもなるため,それはそれで面白い研究である。しかし,正しい値を出すということを目的とし,正しい計算結果に基づいて研究を進めることに主眼を置くとすると,NISQコンピューターは現時点ではその目的には適さない。

それでは,化学分野では,NISQコンピューターを使った研究は意味がないのだろうか。量子技術イノベーション会議の報告では,これからの量子産業を担う若手人材を世界に伍して育成していくことの重要性が指摘されている。量子系に深い理解を持ち,量子系を用いて量子系をいかに記述するかという観点から量子回路を理解できる人材を一朝一夕で育成することはできない。量子コンピューティングに関していえば,実際に量子回路を組み,量子コンピューターの性能の向上に合わせてエラー緩和の手法を最適化することができる「量子リテラシー」をもつ人材を育成する必要がある。さもないと,将来,NISQコンピューターの性能が現在より遥かに高くなった場合,あるいはまた,FTQC(fault-tolerant quantum computer)と呼ばれる誤り耐性を持つ大規模量子コンピューターが実現した場合,その量子コンピューターを使いこなすことができる人材を確保できなくなってしまう。

東京大学大学院理学系研究科化学専攻の私の研究室では,2020年より量子コンピューターの実機を用いて,原子・分子系の量子コンピューティングのプロジェクトを進めてきた。2022年の4月,私にとって最後の卒業研究の学部学生を2名受け入れた。この2名の学生が私の研究室を選んだのは,ともに量子コンピューティングの化学への応用に関心があったからである。その後,彼らは修士課程に進学し,今や,量子リテラシーを十分にマスターした将来が楽しみな若手人材となっている。

今,我が国において,学部学生や大学院生は,皆,量子コンピューターに何らかの関心を持っていると思われる。それにも関わらず,化学分野においては,量子コンピューティングに関わる人材育成の重要性についてはまだ十分には認識されていないようである。手遅れにならないように,例えば,「量子コンピューティングを通じて量子力学や量子化学を学ぶコース」など,新しい視点から構築した教育プログラムを学部教育に導入し,量子人材の育成に本腰で取り組む時期に来ている。

量子コンピューターのキラーユースケースとして量子化学計算が取り沙汰されている今,化学分野において量子コンピューターを用いた研究や,量子コンピューターの実機の開発を目指した研究がより盛んになり,「量子系を記述するための量子系」である量子コンピューターの魅力がより多くの方々に共有されることを願っている。

(令和6年9月7日)

このメッセージの内容は「化学と工業」誌、第77巻、2024年10月号、677-678ページに「論説:必修,量子コンピューター」として掲載されている。