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アト秒化学入門
山内 薫
超高速化学の展開
近頃、「アト秒」という短い時間のことが話題になることが多くなった。最近までは、「フェムト秒」が分子の超高速過程を代表する時間領域であったが、それより更に短い時間での計測が可能になった。
我々の身の回りには様々な分子が存在している。例えば、大気中の窒素分子や酸素分子、そして、二酸化炭素分子などが代表例である。これらの分子内の化学結合はバネに例えることができ、分子の中の原子は玉に例えることができる。分子が振動している様子は、バネでつながった玉が振動している様子に対応する。
その玉が振動する様子を、もし、高速度撮影することができるとしたら、そのコマ撮りのシャッタースピードはどれほどにすれば良いだろうか。また、化学反応が進行するとき、原子と原子の間の化学結合が切断され、そして、新しい化学結合が生成する。化学反応の際に原子と原子の距離が離れたり、接近したりする場面を撮影する場合はどうだろうか。
分子の振動の周期はおよそ1ピコ秒から100 フェムト秒程度であるので、分子が振動している様子を追跡するためには、100 フェムト秒か、それよりも短い時間間隔でそれを観測する技術が必要である。分子が化学反応を起こし化学結合が切断されたり生成されたりする時間も、分子の振動の周期と同じ程度であるので、やはり、100 フェムト秒よりも高い時間分解能が必要となる。ここで、1 ピコ秒 (ps) は10-12 秒である。つまり、1秒の100万分の1のさらにその100万分の1に相当する。1フェムト秒 (fs) は、1000分の1ピコ秒であり、100 フェムト秒は 0.1 ps に等しい。高速度撮影の言葉で表現すれば、1 ピコ秒から 100 フェムト秒程度の時間の間だけフラッシュをたいて、また、その時間と同じくらいの時間を待って、次のフラッシュをたいて撮影する、ということを繰り返えすことが必要である。
超短パルスレーザー光を生成する技術が発展し、パルス光の短さを 100 フェムト秒、あるいはそれ以下にすることができるようになったため、そのような短いパルス光で分子を瞬間的に励起して、その後の様子を、もう一つのパルス光で、その分子をさらに励起することによって、分子の運動の状況を時間の関数として追跡できるようになった。この時、最初のフラッシュに相当するパルス光をポンプパルスと呼び、次にフラッシュをプローブパルスと呼ぶ。そして、このように分子や原子の時間発展を追跡する方法をポンプ・プローブ法と呼んでいる。
物理化学や分子科学とよばれる化学の分野の研究者は、そのような超短パルスの光を用いて、分子が振動する様や、分子の結合が解離する様を、このポンプ・プローブ法によって、追跡してきた。この分野は、フェムト秒化学(あるいはフェムト秒科学)と呼ばれる一分野となって、現在では、世界中で数多くの研究者がポンプ・プローブ法によって、分子の動的な振る舞いを研究している。
なお、我々は、「フェムト秒パルス光」を使って実験をした、などと言うことがよくあるが、このときの「フェムト秒パルス光」の意味は、「1ピコ秒を切った超短パルス光」という意味であって、「1フェムト秒のパルス光」と言う意味では無い。このことは、フェムト秒化学・科学の分野では、当然のこととして使われている慣用的表現である。実際、フェムト秒化学・科学の分野で使われているのは、多くの場合、数フェムト秒から100 フェムト秒の間の「フェムト秒パルス光」である。
フェムト秒化学からアト秒化学へ
世の中には、さらに短い時間領域で起こる現象もある。例えば、もし、炭化水素系の分子が関わる化学反応が進行しているとき、その分子内の水素原子の運動を追跡する場合には、100 fs の時間分解能では分解能が十分ではない。1 フェムト秒か、それ以下の「アト秒領域」の時間幅のパルス光が必要となる。また、原子や分子は原子核と電子から成っており、その電子の位置は原子核の位置に対して、時々刻々変化している。しかし、この電子の動きを追跡するためには、やはり、アト秒領域のパルス光を用いたポンプ・プローブ計測が必要である。ここで1アト秒とは、1フェムト秒の 1000分の1であり、1秒の10億分の1のさらにその10億分の1に相当する。
近年、超短パルス光を発生する技術発展は目覚ましく、1フェムト秒を切る超短パルス光を発生させることができるようになった。我々は「アト秒パルス光」を発生できるようになったのである。今では100 アト秒程度のパルス幅をもつ極限的に短いパルス光の生成も報告されている。このアト秒パルスは、「フェムト秒レーザー光」を高強度とすると同時に光の位相をロックすることによって発生することができる。今、この「極」超短パルス光の生成のお陰で、「アト秒化学」あるいは「アト秒科学」という分野が誕生し、その広がりを見せつつある。これ以上の短い光パルスの生成は原理的に難しいと考えられており、人類は、ついに究極の短さのフラッシュを手に入れたことに成る。
アト秒パルスはどのように作るか
原子の中には電子がクーロン引力のポテンシャルでトラップされている。ここで、ある方向から非常に大きな電場がかかると、クーロン引力のポテンシャルが歪み、中にいた電子が飛び出して電場で加速されて原子核から遠ざかっていく。もし、次に電場が逆方向に掛ると、今度は、電子は減速され、止まり、そして、逆向きに加速され、原子核にむかって突進する。このような電場は、光そのものである。つまり、光の振動数で、電場の向きが交互に変わることになる。フェムト秒パルス光の強度を大きくする技術が確立したため、このように、光によって、原子のクーロンポテンシャルをひずませる程の強い電場を作ることができるようになったのである。
この逆向きに加速された電子は、原子核と衝突し、その瞬間に、アト秒の光バーストと呼ばれる現象が起こる。これは、加速された電子が原子核と衝突する際に、光を放出する過程であり、この光の振動数は、元の光電場の振動数の30倍(奇数倍)以上にもなる。
また、その光が出ている時間は、100 as 程度の「極」超短時間となる。振動数が10倍以上となるので、波長に換算すると、元の光が 800 nm の近赤外領域であるとすると、80 nm よりも短い軟X線(あるいは極端紫外光)と呼ばれる光となる。
元の光の波長が 800 nm の場合、一周期は 2.6 fsとなり、100 fs のパルスの中には、40 回程度、光電場が振動する。この時、アト秒の光バーストが 1.3 fs 毎に現れる。この際生成するアト秒パルスは、多数繰り返して生成するので、アト秒パルストレインと呼ばれる。
このパルストレインを使っても、さまざまな面白い研究ができるが、やはり、一つの孤立したアト秒パルスを発生したいところである。そのためには、パルスのもともとの幅を、8 fs から 4 fs 程度にまで圧縮し、パルス内に光電場の振動が2~3サイクルとなるような短いパルスとすることが必要となる。そうすると、パルスの中に、電場強度が最大となる瞬間が、1回か2回程度となる。もし、光の電場の位相を固定して、コサイン関数になるようにすると、単一のアト秒が発生する。また、もし位相を 90度ずらしてサイン関数になるようにすると、アト秒パルスがパルス内で2回発生してしまう。したがって、この搬送波包絡線位相と呼ばれる光の位相を固定するという技術も重要となる。今では、位相固定技術も向上し、光電場の位相を固定したパルスを安定して発生できるようになってきた。
これからの展望
アト秒パルスが安定して生成できるように成って日が浅いため、実際の研究には応用が始まったばかりである。また、アト秒パルスの強度が弱いために、ポンプ・プローブ計測のためには、その強度を増強する工夫が必要である。現在では、アト秒パルス光の高強度化のための技術開発が世界中で行われており、原子内の電子の動きや、分子内の水素原子の移動など、「極」超短時間で起こる現象が、極限的に短いアト秒パルスを用いて、コマ撮り写真のように観測される日も近いものと思われる。今、電子と原子の織りなす化学の本質が時間領域での観測によって明らかにされようとしている。
〔参考文献〕
(1) 沖野友哉、山内 薫、「アト秒化学の世界」、化学と教育 59巻, 302-302 (2011).
(平成23年8月22日)