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メッセージ

鵜のやうに暮れ − 700 年前のメッセージの解読

山内 薫

次々と現れるさまざまな仕事に追われ、それをこなすうちに、本当に行いたいと願っていたことは何も達成できずに毎日が過ぎていく。まさに、「走って坂を下る輪」の例えは的を射たものである。昔に戻ってやり直したいと思ってもそれは叶わぬ望みである。兼好法師が仰るように、戻すことが出来ない時間の流れを認め、つまらぬことに時間を使わず、最も大切なものに集中するべきである。

さて、その兼好法師は、後世の人々に、謎めいた奇妙なメッセージを残している。その謎については、未だに正解が見つかっていないと言われている。多分、兼好法師が生きた時代の人々にとっては、それ程難しい謎解きではなかったのだろうと思われるが、江戸時代となって、多くの人々が徒然草を読むようになったころには、すでに、解読不能になっていたようである。

その謎は、第135段に紹介されている話の中にある。この段の話を要約すると次のようになる。 藤原資季(すけすゑ)が、源具氏(ともうぢ)に、「私は何でも知っているので、あなたからの質問であれば、すぐに答えられますよ。」と自らの博学を自慢した。「それならば、特別なことではなく、つまらないことで、よく分からないことを質問したい。」と具氏が応え、御前試合で決着を付けることになった。当日、具氏が、「『むまのきつりやうきつにのをかなかくぼれいりくれんとう』という意味の分からない言葉がある。これは何という意味でしょう。」と尋ねたところ、資季が答えられなかったため、試合に負けた資季は、約束どおり皆にご馳走を振舞った。

問題は、この具氏が述べた、「むまのきつりやうきつにのをかなかくぼれいりくれんとう」という呪文のような言葉である。以前から、徒然草の注釈に関わった人々が、この謎を解こうとしては、さまざまな解釈を提案したそうである。当時流行った謎々であると判断し、「その心は雁である」とした説もあるそうだ。しかし、諸説のうち、誰もが納得できる説は見つからず、その結果、もともと意味の無い文字の羅列であったのだ、という説や、今さら当時の謎を解けないのは仕方が無いと諦め気味の結論も述べられてきたようである。

私は、古典文学の専門家でもなければ、徒然草の研究家でもない。しかし、徒然草で兼好法師が説いているお話は、いちいち納得し共感することが多く、徒然草は私の愛読書である。徒然草を通じ、人は如何に生きるかというメッセージを後世に伝えた兼好法師なのだが、その中に、後世に伝え切れていない謎が残されているのは残念なことである。そこで私は、私なりの方法で、この700年前の謎解きに挑んでみたいと思った次第である。

まず、この文字列が、26文字からなることに注目したいと思う。これは、実は、7 + 7 + 7 + 5 と分解できる数である。古くから、童謡や今様のように、7 や 5 の区切りは、われわれ日本人にとって自然な区切りである。しかも、具氏が謎を出した冒頭に、「幼くより聞き慣らひ侍れど、」と導入がある。幼いころから聞いているのであるから、この26文字は、第181段にある「ふれふれ小雪 丹波の粉雪」のような童謡の一部分ではないだろうか。

兼好法師は、第137段で、「継子立て」の遊びを紹介している。これは、双六の石を並べておき、順に数えていって、ある決められた順番に当たる石を取り除き、それを繰りかえすという遊びである。もしかすると、この継子立方式で、26文字から一文字づつを拾っていけば意味のある童謡になるだろうか。しかし、この方式では、もっともらしい言葉の並びを見出すことはできそうもない。

全部で26文字しかないのだから、すべての並び方を計算機に計算させて、それを後でチェックすれば、簡単に見つかるであろうと考える人もいるかも知れない。しかし、実は、この「力づく法」は、いかにも芸がないうえ見込みが無い。実際、26文字の中に、2回出てくる文字が8個あることを考慮しても、並べ方は1.57 x 1018 通りという天文学的な数字になる。そこから、意味のある童謡らしいものを拾い出すのは、至難の業と思われる。できればもう少し頭を使いたいものである。

それでは、以下に、一気に謎を解いてみようと思う。まず、これは童謡であると信じ、「子供たちの遊び」が読み込まれていると考えよう。何度も26文字を唱えると、それは「かくれんぼ」と「まりつき」であるらしいことが想像できる。そこで、この2つの遊戯の文字を取り除いて、残りの文字を並べてみよう。

むのやうきつにのをかないりくれとう

「かくれんぼ」は5文字であるので、そのままでも良いとすると、残りはすべて7文字がユニットとなることから、4文字の「まりつき」には、後3文字を加えることが必要である。この残った中で、語呂を考えてしっくりくるのは「むつき」である。つまり、「鞠突き睦月」あるいは「鞠突き六突き」となる。多分、睦月に限る話では無いと思われるので、「鞠突き六突き」を採用する。残りの文字は、次の、14文字である。

のやうにのをかないりくれとう

この中には、「のやうに」と「のなかを」の4文字のグループが見えてくる。「何かの中を」という部分の「何か」に当たる3文字の部分が、「いりくれとう」に入っているはずである。これは、「とりい」、つまり、「鳥居」ではないだろうか。つまり「鳥居の中を」を見つけ出すことができた。

残りは、「くれう」と「のやうに」を結びつけられれば終わりである。「くれ」は「暮れ」、そして、「う」は「鵜」と考えることが出来そうである。「鵜のやうに暮れ」とすることができる。鵜は、真っ黒な鳥である。鵜の羽のように真っ暗に日が暮れることを示すことになる。

したがって、意味を考えて並べてみると、

まりつきむつき とりいのなかを かくれんぼ うのようにくれ
(鞠突き六突き 鳥居の中を 隠れんぼ 鵜のやうに暮れ)

となる。「鞠突き遊びをして、神社の境内でかくれんぼをしている内に、夜の帳が下りて、真っ暗になってしまった。」という歌である。いつまでも遊んでいると真っ暗になるから、暗くなる前に帰ってきなさいというメッセージにも読める。

私は、意味の無いと思われていた26文字が、これほどまでに鮮明なメッセージを持った童謡になるとは思いもしなかったので、この歌が現れたときは正直に言って驚いた。すべての「かな」を使って歌をつくれるか、という超難問に古代の歌人は「いろはにほへと」によって答えた。これは、「力づく法」では解決できない問題である。ささやかではあるが、「いろはにほへと」の歌を見つけ出したときに、古代の歌人が味わった感覚に似たものを共有したような気がしている。もちろん、私の提案が正解かどうかは、兼好法師に聞くのが一番良いのだが、本人が居ない以上は、正解は結局、分からず仕舞いかも知れない。

ところで、この「鞠突き六突き 鳥居の中を 隠れんぼ 鵜のやうに暮れ」を、節を付けて歌ってみると少し歌いにくいことに気がつく。これは、7, 7, 5, 7 となっているためである。できれば、7, 5, 7, 5, 7 としたいところである。さてどうするか。この謎解きの範囲内で対応するとすれば、全く新しい 5 文字を入れることはできない。ここは「かくれんぼ」を入れるのが良いだろう。歌いやすい童謡として、

鞠突き六突き 隠れんぼ 鳥居の中を 隠れんぼ 鵜のやうに暮れ

がしっくり来るように思われる。節を付けて歌えば、

となる。鎌倉時代には、子供たちがこの童謡を歌っていたのだろうか。専門外の徒然草の謎解きに時間を使っている私は、兼好法師に、「つまらぬことに時間を使わず、最も大切なものに集中しなさい」と諭されそうである。

(平成25年10月30日)