研究室トップ → 過去のメッセージ

過去のメッセージ

波及する Academic English for Chemistry
− 修士課程のためのBAEC開講

山内 薫

真夏のある晴れ渡った日の日中に、アテナイの郊外の、今は無いイリソス川のほとりのプラタナスの木の木陰で、ソクラテスがパイドロスに語りかけています。「どのようにすれば、上手に話しをしたり、上手に文を作ったりすることができるようになれるのか?」と。お決まりの自問自答のような問答を通じて、ソクラテスは続けます。「そのためには、自分が話そうとしている事柄に関する真実を、良く知っていなければならない。まず、真実をわがものとした上で、言論の技術を把握しなければならぬということなのだ。」、そして、「知を十分に愛し求めるのでなければ、何ごとについても、話す力を十分にもった者には決してなれないだろう。」と。

我々は、自然科学の研究を行っている訳ですが、その研究の成果を世界中の人と共有し、そのフロンティアを日々、共に開拓しています。現在は、研究者間の意思疎通を図るための媒体となる言語として英語が使われています。残念ながら、日本語はその地位にありません。したがって、自然科学者は英語に習熟しなければなりません。もちろん、これもまた当然のことですが、幾ら英語が話せても、英語で上手な文章が作成できたとしても、知的な好奇心を満たすべく努力したことに伴う成果としての「中身」がなければ、プラトンがその著作の中でソクラテスに語らせているように、それは意味が無いということです。

そこで、もし、我々が、その努力して得た成果という「中身」を持っているとしましょう。その場合には、その中身を、ぜひとも、世界中の研究者に、わかりやすく説明して、その知識を共有したいものですし、その成果に関して関心のある研究者と議論をしたいものです。そのときに、言いたいこと、書きたいことを、まず日本語で考えて、それを、英語に翻訳して、それから発言したり、書き記したりしていたのでは、時間が掛かってしまって、とても大変です。書く方について言えば、時間をかけたとしても状況としては許される場合が多いかも知れませんが、意見交換を口頭で行うときには、そのように時間をかけていたのでは、話が進みません。特に、3人以上で議論をするときには、そのように時間の掛かる人が1人居ると、その人は議論に加われなくなってしまいます。

これは今にはじまったことでは無いかも知れませんが、国内外で開催される国際会議に出席しても気がつくことですが、日本人の研究者の会場からの質問が如何に少ないことか!この現象について、「日本人は、国民性が奥ゆかしいので、質問をしないのだ。」と善意に解釈してくれる海外の人も居るようですが、彼らとて、理解が進むにつれて、「実は、日本人研究者の多くは、英語が苦手で、発言が上手にできないからではないか、もしかしたら、講演の内容も聞き取れていないのでは無いか?」ということに思い至るのではないかと思います。

国際会議では、講演者の講演が終了した直後に質問と議論の時間がありますが、疑問に思ったことをすぐに質問しなければ、質問の時間が終わってしまいます。もし、頭の中で、聞きたいことを英語でどのように言ったらよいかと考えていたら、その間に、他の人が質問をしてしまいます。そうすると、その質問について講演者が答えたり、別の人が、関連した内容の意見を述べたりということが、次から次へと進んでいきますので、「質問したかったけれど、できなかった」、ということに成ってしまいます。

どうしたらそのような議論に加わることができるようになるのでしょうか?もちろん、どのような発表であったのかを聞き取る能力が必要なことは当然ですが、講演内容の勘所を「直ちに」理解して、質問があればそれを、「直ちに」講演者に聞くことが必要です。やはり、議論の波に乗るためには、日本語を経由せずに、「いつの間にか、考えている通りに英語で質問してしまっていた」というレベルに、英語という言語を身近で自然なものに引き上げてあげる必要がありそうです。そのためには、「そのようにしたい」という強い意思を持つと同時に、質の高い英語に接し、英語を使う時間をできる限り増やす以外には手が無いように思います。

東京大学大学院理学系研究科化学専攻では、博士課程の大学院生のために、Academic English for Chemistry(化学英語演習T・U)を開講して、平成21年には8年目を迎えます。このプログラムでは、英語を専門とするネイティブスピーカーの先生方による週2回の授業を通じて、博士課程1年の学生に、「学術交流に必要となるコミュニケーション力」、そして、「ロジカルな文章を書くための作文力」を身につけさせることを目指しています。平成20年度には、修士課程1年の大学院生のために、Basic Academic English for Chemistry (化学英語演習基礎T・U)を新たに開講し、70名を越える修士課程1年生の全員が受講できるように、週に1回の授業を5つのクラスに分けて進めてきました。

平成21年度からは、東京大学大学院理学系研究科全体で、博士課程の英語演習として「科学英語演習T・U」という共通の名称の授業が、各専攻において開講されることとなりました。本化学専攻で7年前(平成14年11月)に始められた「大学院博士課程学生のための英語プログラム」が、大学院学生の国際性を高めるための授業として注目され、全国の他の21世紀COEプログラムにおいても採用されることとなった訳ですが、平成21年度からは、グローバルCOEのフェイズにおいて、東京大学大学院理学系研究科のすべての専攻においても英語演習が開講されることになりました。このことは、理工系の大学院学生のための英語演習というカリキュラムが、実践と実績を通して定着してきたことを意味しているように思います。我々の専攻が、その端緒を開き、この流れを推し進めることに貢献できたことは、大変喜ばしいことです。なお、この理学系研究科におけるカリキュラム改正に伴って、これまでの「化学英語演習T・U」という科目名は「科学英語演習(化学)T・U」に変更されますが、私たちは、英語の先生方と協力し、授業の内容がこれまで以上に良いものとなるように、努力していきたいと思っています。なお、英語名は、Academic English for Chemistry のままですし、修士課程の英語演習の授業名は変更されず、今まで通り、「化学英語演習基礎T・U」となります。

さて、今年度のAEC、BAECを振り返ってみると、いくつかの問題点も浮かび上がってきています。博士課程のAECでは、博士課程への進学者の数が少なかったこと、そして、夏学期の後半から、海外への留学をした学生が居たこともあって、授業への出席者が減少し、冬学期からは、3つあったクラスを一つ減らして、2クラスにせざるを得ませんでした。また、修士課程のBAECでは、クラスの中には、授業に出席すべき学生の半分近くが欠席するという場合もあったと聞いています。また、欠席しがちの学生からは、朝起きるのがつらいので出席しないという理由が返ってくることが多いと聞いています。中には、授業には出るものの、授業中、先生には意図的に協力しないというような態度を取る学生が現れ、英語講師の先生を困らせる場面もあったと聞いています。さらに、私たち化学専攻の教員が、それ程までに大学院生を英語演習の授業に出させたいのであれば、その単位を必修単位に含めれば良いではないか、という意見も大学院生から寄せられていると聞いています。

英語講師の先生方は、英語という語学において、それを専門とする先生方であり、その先生方が、非常に熱心に授業をして下さっているのです。したがって、大学院生がその授業を受けることができるということは、大変恵まれたことであると思います。もちろん、この環境を用意するためには、資金が必要です。化学専攻では、GCOEプログラムの資金を使って、AEC授業の先生方に謝金をお支払いしています。そして、専攻の教員の先生方が獲得した外部資金に基づく間接経費を使って、BAEC授業の先生方に謝金をお支払いしています。私たちは、AEC、BAECが大学院学生のために、必ずや役に立つものであると確信して、その貴重な資金を英語演習プログラムのために使っているのです。大学院学生の皆さんが、この恵まれた環境の真価を理解し、積極的に、英語演習プログラムを活用して、英語をごく自然に使えるようになって欲しいと願っています。

平成20年度の化学英語演習T・U、化学英語演習基礎T・Uについては、Timothy Wright 先生(大妻女子大学)をリーダーとする、総勢7名の英語講師の先生方に授業をご担当いただきました。Timothy Wright 先生、David Taylor 先生(東京医科歯科大学)、John Pustulka 先生(東京YMCA College of English)、Jeffery Miller 先生(白鴎大学教育学部)、Evelyn Reinbold 先生(文教大学)、Patrick McGuire 先生(聖徳大学)には、平成20年度を通して、Michael Miller 先生(MILLER TAKEMOTO & PARTNERS)には、平成20年度の夏学期の期間、本専攻の大学院学生を熱心にご指導いただきました。さらに、平成21年2月27日(金)に開催されるThe 6th Annual Symposium on Academic English for Chemistry の準備にあたっては、冬学期をご担当下さった先生方が、発表練習やリハーサルを通じて、大学院生を指導して下さっています。ここに、本年度お世話になった7名の先生方に心より御礼申し上げます。

最後に、AEC、BAECの受講生が、「知に対する切実な欲求」を持ち続け、近い将来、最先端の研究成果を、国際的な環境の下で、議論し、講演し、そして、論文を通じて伝えることができるようになりますように、そして、Wright 先生をはじめとする英語講師の先生方が、われわれの英語演習のプログラムをますます充実したものとして下さるように、聳え立つ一対のヒマラヤスギに宿る化学教室の土地の神様にお祈りをささげて、この文章を終えることにしたいと思います。

(平成21年2月9日)